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岐阜城は戦時の供え
現在の岐阜城は、天守内部は3階まで資料館となっている。
最上階の廻縁(まわりえん)から眺める360度パノラマは絶景。
では、信長のときはどうだったか。
この城の天守は、あくまで戦時の要塞(ようさい)だった。信長と濃姫が日常生活を送ったのは山麓にあった居館である。
織田信長公居館跡は1984年から発掘調査が行われ、居館は巨大な石垣が巡らされ、自然景観を取り入れた庭園があったことが分かった。
屋敷は4階建て。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、この居館を「宮殿」と呼んだという。
2012年には、居館の瓦菊とぼたんをかたどった金箔で飾り付けた瓦が使われていたことが判明した。
金箔瓦を最初に使用したのは安土城(1576年に信長が築城)と考えられてきたが、この発見によって、安土に先駆け岐阜城が金箔瓦を使っていたことが判明。
信長は、「戦うための要塞」だった戦国時代の城を、華美な演出を施して「見せる城」に変えた。
財力と権威を誇示することで敵をひるませる効力を狙ったのだろう。
信長の居館
岐阜城は典型的な山城であり、普段の生活には向かない。
そこで、城主たちは日常の生活や賓客の接待を行うため山麓の千畳敷下・槻谷(けやきだに)に居館を創った。
もともとのものは、斎藤道三・義龍・龍興の斎藤氏三代の頃に造られていた。
それを、織田信長が大規模に造成・改修した。
信長時代の館の発掘調査から、巨石を縦に並べた入口、屋根瓦には金箔瓦を使用し、巨大な岩盤を背景にした庭園などがあったことが分かっている。
岐阜城を訪れる際には、こちらも注目しておきたい観光スポットの一つである。
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