織田信長の美濃制覇
信長が、岐阜城を得たのは永禄10年(1567)。
竹中半兵衛の稲葉山城占拠事件から、3年後のこと。
信長の父、信秀の代から幾度も挑戦し、実現できなかった岐阜城攻略は、どうして可能になったのか。
ここからしばらくは、信長が岐阜城を手に入れるまでの流れを追う。
織田信長とは、何者か
JR岐阜駅前に信長の黄金像が建っている。
この像は、2009年に市民の寄付により建立されたと言う。
戦国の風雲児・織田信長(1534~1582)は、尾張(現在の愛知県西部)の小国の大名であったが、父信秀の代までは、尾張守護の斯波氏に仕える守護代(本家の織田家)に仕える単なる家臣(奉行)の家柄でしかなかった。
つまり、家来の家来。
桶狭間の戦い
信長が頭角を現すのは、何と言っても桶狭間の戦い。
永禄3年(1560)5月19日、尾張知多郡桶狭間で今川義元軍2万5千に対し、信長軍約3千(一説に2千だったとも)。
この戦いで、兵力差10倍の今川軍に信長は勝利する。
この勝利により、信長は尾張統一の礎を築き、美濃の義龍とも戦い続けることとなった。
織田信長の美濃制覇
竹中半兵衛によって一時稲葉山城を追われた龍興(たつおき)だが、ほぼ一年後竹中半兵衛は稲葉山城を龍興に返してしまう。
織田信長は龍興が稲葉山城に入ると、攻める機会を虎視眈々と狙っていた。そして永禄七年(1564年)2月6日ついに稲葉山城に攻めかかった。
稲葉山城の戦いである。
この戦いでは、信長は事前に美濃の有力家臣たちを寝返らせることに成功していた。
美濃の有力家臣とは、「西美濃三人衆」と呼ばれた人物で、
安藤守就(もりなり)、
稲葉良通(よしみち、一鉄の名でも知られている)、
氏家直元(うじいえなおもと)のこと。
この3人を味方に引き入れていたことで、戦いの趨勢は決した。
ただし、竹中半兵衛は信長の家来になることを拒否し、秀吉の客分のような形で活動するに留まっていた。
「頑固一徹」の語源
「頑固一徹」という言葉がある。
辞書には、「非常にかたくなで、一度決めたらあくまでも自分の考えや態度を変えようとしないさま。」とある。
この言葉の語源は、「稲葉良通(一鉄)の頑固な性格」だと言われている。
一鉄は、信長に屈した後も、歯に衣を着せずに意見を述べ、一度決めたことは一徹に貫く人物として知られていた。
そこで「稲葉一鉄(いってつ)」と言えば「頑固者」というイメージが定着し、「頑固一徹」という慣用句が誕生した。
コメント