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岐阜城の見所:岐阜城観光の前に押さえておきたい歴史背景と観光スポット

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初代城主は、鎌倉殿の13人の一人「二階堂行政」

かつては井之口(いのくち)城、稲葉山城と言った岐阜城は、鎌倉時代の建仁年間(1201年)に鎌倉殿の13人の一人二階堂行政によって、築城された。

二階堂行政

二階堂行政は、藤原氏の末裔。
鎌倉時代幕府に呼ばれるまでは、朝廷で下級官吏(貴族)だった。

母方が熱田大宮司家の出で、源頼朝とは親戚。その縁で頼朝の政権に参加したと思われる。

朝廷では、会計業務を担当していた。
その業績と手腕を買われ鎌倉でも財政面を担当(政所執事)。

二階堂家は、頼朝亡き後も代々鎌倉幕府の政所執事を世襲している。
多くの分家があり、鎌倉幕府の実務を支える一族だった。

斎藤道三から義龍そして、龍興へ

長良川の岸辺から見上げる岐阜城。現在の天守は1956(昭和31)年に再建された
岐阜城を臨む

二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が中心となって築城した稲葉山城を、城郭として大改修したのが斎藤道三だった。
道三の名乗りは斎藤利政(としまさ)。美濃のマムシとして、司馬遼太郎氏の時代小説「国盗り物語」でも有名。

歴代の「NHK大河ドラマ」でも、幾度も登場する武将。

これまでは、『国盗り物語』でも描かれていたように、流れ坊主が、油商人の家に婿入りし、そこから一代で美濃一国の大名に上り詰めたとされてきた。

だが近年、近江国の守護大名六角承禎(ろっかくじょうてい)が、家臣に宛てた手紙が発見され、その解読から「道三の国盗りは、道三の父の代から親子二代で行われた」という説が有力説になりつつある。

ただし、この手紙からでは、斎藤道三の父がどのような仕事をし、道三にどのように財産・地盤を継承していったのかは不明である。

とにもかくにも、道三は美濃守護一族の土岐頼芸(よりあき)の元で武士として働き、主君の土岐頼芸守護の座につけることに成功したことで、勢力を伸ばしたようだ。

信長、斎藤道三の娘・濃姫を妻とする

1542年(49歳)の時に、自らの主君、土岐頼芸を尾張に追放することに成功する。
これによって道三は、美濃の支配者となった。

織田信秀木像(萬松寺所蔵)

尾張に追放された土岐頼芸は、信長の父織田信秀を頼る。さらに、北の越前には朝倉氏を頼った頼芸の兄の子がいた。

織田・朝倉を後ろ盾とすることができた頼芸(よしあき)は、美濃奪還を目指して攻め込んできた。
織田信秀の攻撃は激しく、道三はその対処に苦慮したものの織田軍に大打撃を与えることに成功する。
加納口の戦い(かのうぐちのたたかい)である。

道三に手痛い目に遭わされた信秀は、道三と和睦の道を模索することになる。
この和睦を進めるに当たり、道三の娘帰蝶(濃姫とも)と、信秀の嫡男信長が結婚することになった。

帰蝶は道三の正室の子であり、明智光秀とは従兄妹の関係とも言われる。

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