昭和21年(1946年)5月23日、嘉子(寅子のモデル)の夫・芳夫が亡くなった。
失意の嘉子に、さらに悲劇が重なる。
最愛の、母と父の立て続けの死。
嘉子の母と父の死の様子にせまる。
母・ノブ(はるのモデル)の死

昭和19年(1944年)にはすぐ下の弟である、一郎が奄美諸島の南方で戦死。
昭和21年(1946年)5月には、夫が病気で亡くなる。
そして、夫の死からわずかに7か月後の昭和22年(1947年)1月、今度は母のノブが急死してしまう。
原因は、脳溢血だった。
ノブの生年は明治25年(1892年)だったので、享年は55歳。
父・貞雄(直言のモデル)の死

続いて、母・ノブの死と同じ年の昭和22年(1947年)10月、今度は父の貞雄が病死してしまう。
肝硬変だった。
闘病を続けていた貞雄にとって、妻の死が答えたのだろう。
妻の死から、わずかに9か月目の死だった。
貞雄の生年は、明治19年(1886年)だったので、享年61歳。
たて続けに、嘉子の周りで最愛の人々が死んでいった。
この当時、明治大学専門部女子部で嘉子から民法を教わっていた人が、

ご主人を亡くされ、嘉子先生はひどく泣いておられました。涙で顔が紫色になった人を見るのは、初めてでした。
『夫が死ぬと、こんなにつらい目に遭うのか。それなら、私は結婚するまい。』と、思ったほどでした。
と述べている。
弟の死、夫の死、母の死、父の死と…。
この事実を乗り越えるのは、さぞつらかったことだろう。
彼女の成し遂げた偉業を思うと、「よくぞ、乗り越えたものだ」
と思わざるを得ないと、思うと同時に
これから「虎に翼」でも、寅子にこの悲劇が襲いかかるのか、と思うと悲しい気持ちになる…。
頑張れ、寅子!
何が、寅子(嘉子)の気持ちを奮い立たせたのか


母と父の葬儀が終わると、武藤家には、弟3人が残された。
そして、嘉子には一人息子の芳武がいる。
武藤家の弟3人と、息子1人を養うのは嘉子でしかなかった。
武藤家の次男、輝彦は復員してきたばかり。
三男の晟造は、北大の学生。
一番下の四男の泰夫は、旧制高校から東大へ進学する学生。
息子の芳武は、幼児。
嘉子は、家族を養わなければならなかった。
生活費も、弟たちの学費も彼女の細腕にかかっていた。
このような状態で、何時までも泣いているわけにはいかなかった。
このときの様子を、一番下の弟泰夫さんは、次のように語っている。



「一郎兄さんが生きていたときには、姉さんも一郎兄さんを頼っている様子がありました。
ただ、一郎兄さんも芳夫さんも亡くなって、父母も死んで、おそらく覚悟を決めたのでしょう。
なんだか堂々としていたことを覚えています。
『姉がいるから大丈夫』と思いました。
現実が、「弱さ」を赦さない。
「たくましくなければ生きていけない」
そういう状況だった。
嘉子自身の回想
この時期について、後年嘉子自身が次のように語っている。



相次ぐ肉親の死に、しばらくの間私は人のみに起こる不幸というものに不感症になっていました。
『これ以上自分からとれるものがあるならとってみろ!』
というふてくされた態度で、台地にあぐらをかいているような気持ちでした。



この悲しさは、他人に分かるものかと、歯を食いしばった思い出いました。


嘉子の再起と新たな道
嘉子(寅子のモデル)は、弟の死、夫の死、両親の死という立て続けの不幸に見舞われながらも、家族を支えるために立ち上がらなければなりませんでした。
彼女が歯を食いしばって乗り越えた苦難の後に、どのような人生が待っていたのでしょうか。
司法省での挑戦
1947年3月、嘉子は裁判官になるための採用願を提出しましたが、当初は女性であるという理由で任官を許されませんでした。
しかし、彼女はあきらめることなく、同年6月に司法省民事部へ入ることになります。これは東京控訴院長の計らいによるもので、嘉子に勉強の機会を与えるためでした。
司法省での日々は決して楽なものではありませんでした。当時の司法省は男性社会そのもので、女性が専門職として働くことに対する偏見が根強く残っていたのです。嘉子は毎日のように「女性に法律の仕事など務まるのか」という冷ややかな視線を浴びながらも、黙々と実績を積み重ねていきます。
特に家事審判等の立法作業に関わり、戦後の新しい家族法の整備に尽力したことは、後の彼女の裁判官としてのキャリアに大きな影響を与えることになります。
明治女子専門学校での教鞭
同時に嘉子は、1947年11月から明治女子専門学校の教授として教鞭を執りました。教壇に立つ嘉子の姿は凛として美しく、学生たちに大きな影響を与たといいます。
当時の教え子の一人は後にこう回想しています。
「武藤先生(当時)の授業は厳しいけれど、その眼差しには常に温かさがありました。自分の悲しみを内に秘めながらも、私たち学生のために全力を尽くす姿に、女性としての強さを教えられました」
嘉子は授業の中で、しばしば自身の経験を踏まえて語りました。
「法律は冷たい条文の集まりではありません。そこには人間の営みがあり、喜びも悲しみもあるのです。だからこそ、法律家は常に人の心に寄り添わなければならないのです」
この言葉は、多くの女子学生の心に刻まれました。
女性初の判事への道
念願の裁判官任官
1949年6月、嘉子はついに東京地裁民事部の判事補として任官することになります。これは女性で2番目の裁判官就任でした。そして1952年12月には名古屋地裁の判事として、日本で初めての女性判事となったのです。
当時の法曹界では、女性裁判官に対する偏見や差別が根強く残っていました。ある日、法廷で嘉子が裁判長として座っていると、弁護士が「裁判長、女性の方はどちらですか?」と尋ねたというエピソードが残っています。嘉子は微笑みながら「私です」と答え、その場の空気を和ませたといいます。
三淵乾太郎との再婚
1956年8月、嘉子は最高裁調査官の三淵乾太郎と再婚しました。乾太郎は初代最高裁長官である三淵忠彦の長男でした。乾太郎も前妻を亡くしており、1男3女の子持ちでした。嘉子は自分の息子・芳武に加え、乾太郎の子どもたちも我が子として育てることになります。
再婚後の家庭生活について、嘉子はある雑誌のインタビューでこう語っています。
「子どもたちが打ち解けるまでには時間がかかりました。特に娘たちは母親の代わりとなる私に対して、最初は警戒心を抱いていたようです。でも、私は決して前の奥さんの代わりになろうとはせず、ただ彼らの新しい家族として接するよう心がけました」
乾太郎との再婚生活は、嘉子に新たな喜びをもたらしました。法律家同士の会話は知的刺激に満ち、互いの仕事を尊重し合う関係を築いていったことでしょう。
家庭裁判所での活躍
少年事件への情熱
1963年3月、嘉子は東京家裁少年部に配属されました。ここで彼女は10年近くにわたって少年審判を経験し、少年事件に対する深い洞察力と情熱を育んでいきました。
嘉子は少年事件を担当する中で、非行少年たちの背後にある家庭環境や社会問題に目を向けます。ある少年事件の審判で、嘉子は非行を繰り返す少年に対して、厳しさの中にも温かさを持って接したといいます。
「あなたの行為は許されるものではありません。しかし、あなた自身を否定しているわけではないのです。今、ここで立ち止まって、自分の人生を見つめ直す機会にしてください」
この言葉に涙した少年は、その後更生の道を歩み、後年「三淵先生の言葉が人生を変えてくれた」と手紙を送ってきたそうです。
女性初の裁判所長
1972年6月、嘉子は新潟家裁の所長に就任し、日本初の女性裁判長となりました。その後も浦和家裁、横浜家裁と各地の家庭裁判所の所長を歴任しました。
新潟家裁所長就任時、地元紙のインタビューで嘉子はこう語っています。
「家庭裁判所の使命は『家庭に光を、少年に愛を』です。この理念を胸に、地域に根ざした家庭裁判所を目指したいと思います」
所長としての嘉子は、組織運営においても卓越した手腕を発揮しました。部下の裁判官や職員に対しては、性別に関係なく実力を評価し、適材適所の人事を心がけました。また、地域の弁護士会や福祉機関との連携を強化し、家庭裁判所の機能を充実させることに尽力しました。
定年後の活動と遺志
1979年11月13日、嘉子は定年を迎え裁判官を退官しましたが、その後も弁護士として活動を続けました。また、各地で講演を行い、女性の社会進出や法曹界での活躍を促す活動にも力を入れています。
ある講演会で嘉子はこう語っています。
「私が裁判官になった頃と比べれば、女性の社会進出は格段に進みました。しかし、まだまだ道半ばです。若い女性たちには、自分の可能性を信じて、どんな困難にも立ち向かってほしいと思います」
1984年5月28日、嘉子は69歳でこの世を去りました。彼女の葬儀には、法曹界の重鎮から教え子、そして彼女が関わった少年事件の元当事者まで、多くの人が参列したといいます。
嘉子の遺した足跡は、日本の法曹界に大きな影響を与え続けています。特に女性法曹の道を切り開いた先駆者として、その名は今も多くの法律家に敬愛されています。
「これ以上自分からとれるものがあるならとってみろ!」
と歯を食いしばった嘉子の人生は、苦難を乗り越え、新たな道を切り開いた勇気と情熱の物語として、今も多くの人々の心に生き続けているのです。


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