常陸佐竹氏– category –
- 常陸佐竹氏
北畠親房は誰のために,何のために神皇正統記を書いたのか
神皇正統記は,「誰のために」そして,「何のために」書かれたのでしょうか○「誰のために書かれたのか」 「童蒙」のために書かれたとあります。 では,「童蒙」とはだれでしょうか。私見ですが,百通にも及ぶ書簡のやりとりをしても動かず,「道理・大義... - 常陸佐竹氏
鎌倉公方満兼が定めた 関東八屋形(関東八館)とは何か
常陸の佐竹氏と小田氏、下総結城氏と千葉氏、下野の小山氏、宇都宮氏、那須氏、長沼氏(大掾氏を当てることもある)、この八つの家に鎌倉公方満兼は「御屋形」の号を与えます。関東八屋形(八館)です。 - 常陸佐竹氏
上杉禅秀の乱・永享の乱・享徳の乱の中、100年間佐竹宗家と戦った山入氏は、どのように滅んだか
山入氏義に金砂山城を攻められた佐竹宗家の義舜は、天が味方したか雷雨に救われて氏義を破りました。そして、永正元年(1504)山入氏義から太田城を奪還。100年にわたる山入氏の乱の終結です。 - 常陸佐竹氏
享徳の乱「公方成氏と幕府・管領との争い」が戦国時代の幕を開ける
享徳の乱は、荒く言えば15世紀中盤に28年にわたって行こなわれた『公方と管領の争い』です。この乱後、鎌倉府は全く機能しなくなり、領土問題が生じたら自力解決することになります。大義名分などお構いなしの戦国乱世の時代の到来です。 - 常陸佐竹氏
常陸の名門 結城氏はなぜ滅んだのか
永享11年(1439)2月に、幕府軍と管領軍の両方に攻められ持氏は自害します。初代基氏(正平4年(1349・貞和5))から、90年続いた鎌倉府が一時途絶えたのです。そして、この鎌倉府滅亡こそ結城合戦の原因でした。 - 常陸佐竹氏
室町幕府の義教と鎌倉府の持氏が争った永享の乱
◯上杉禅秀の乱後の室町幕府と鎌倉府 ・嫡子が途絶えた佐竹氏の後継争い ・上杉禅秀の乱 ・公方と将軍の争い ◯永享の乱と佐竹一族 ・鎌倉幕府の将軍になれなかった公方持氏 大いに怒る ・公方持氏 ・京都御扶持衆の大掾満幹を滅ぼす ・将軍義教の反撃 ・永享の乱勃発 - 常陸佐竹氏
上杉禅秀の乱と佐竹一族 山入氏の反乱
山入氏の反乱 13代の義盛の時代は、佐竹の安定期でした。 しかし、佐竹家存亡の危機が訪れます。応永14年(1407)、13代義盛が43歳の時に嫡子がいないまま亡くなってしまったのです。 当然、跡目を巡って、一族のみならず国人層も交えて紛争が起こりま... - 常陸佐竹氏
常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦 と佐竹一族
常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦 難台山城とは 難台山城は、現在の笠間市と石岡市の境界にあります。関城が落城し南朝の巨人畠山親房が常陸を去った後、久しく沈黙していた南朝方勢力が、常陸の北朝方に最後の戦いを挑んだ場所です。 難台山城後... - 常陸佐竹氏
失地回復を成し遂げた10代貞義の後継、11代佐竹義篤は 鎌倉府重鎮の道を歩む
14世紀中盤の大者の死 大物たちの死亡年 いつの時代でもそうですが、14世紀の中盤の大物たちの死も、時代に変化をもたらしました。 佐竹の暗黒時代である鎌倉時代を乗り切り、失った領地回復を進めた佐竹10代貞義が1352年に亡くなります。 その2年後の135... - 常陸佐竹氏
観応の擾乱と常陸守護としての佐竹氏
佐竹貞義に続き、足利尊氏の下、常陸守護大名の足場を築いた佐竹11代義篤と、観応の擾乱の関係