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べらぼう第12回「俄なる『明月余情』」考察:祭りと出版が結ぶ絆の物語

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第12回「俄なる『明月余情』」は、吉原の夏祭り「俄(にわか)」を舞台に、さまざまな人間関係と文化的背景が交錯する見応えのある回となりました。

2025年3月23日に放送されたこのエピソードでは、祭りをめぐる対立と和解、秘められた正体の暴露、そして儚い恋の行方など、多くの視聴者の心を揺さぶる展開が描かれました。

本記事では、この第12話の内容を深く掘り下げ、視聴者の反応や歴史的背景も踏まえながら考察していきます。

目次

第12回「俄なる『明月余情』」のあらすじ

第12回は、吉原での夏祭り「俄」を中心に物語が展開します。

前年の祭りが小規模で終わったことから、今年こそ盛り上げようと吉原の親父たちが蔦重(横浜流星)に相談を持ちかけます。

そんな中、吉原内で対立する若木屋(本宮泰風)から廻状が届き、8月いっぱい「俄」の祭りを行うと一方的に宣言されました。

この宣言に大文字屋(伊藤淳史)をはじめとする親父たちは憤りを感じますが、蔦重は秋田藩藩士の平沢常富(尾美としのり)から「張り合うほうが祭は盛り上がる」というアドバイスを受けます。

蔦重は祭りの内情を面白おかしく書いた本の執筆を平賀源内(安田顕)に依頼します。

しかし源内はエレキテルの売り込みに忙しく、代わりに「朋誠堂喜三二に頼むといい」と助言します7

そこで驚きの事実が明かされます。

平沢常富の正体が実は戯作者「朋誠堂喜三二」だったのです。

この重要な情報は、物語に新たな展開をもたらします。

蔦重は平沢に青本を描いてほしいと頼みますが、平沢の青本は鱗形屋から出版されており一度は断られてしまいます。

しかし祭りの最終日、改めて「”序”だけでも書いてほしい」と頼み、承諾を得ることに成功します。

また、祭りの最終日には、うつせみ(小野花梨)新之助(井之脇海)が再会するシーンも描かれました。

うつせみの横にいた松の井(久保田紗友が「祭に神隠しは付き物でござんす」と言って笠を渡し、「お幸せに」と背中を押すことで、二人は祭りの喧騒にまぎれて吉原を後にします7

視聴者の熱い反応:「神回」と称えられた第12話

第12話の放送後、SNSなどでは多くの反響が寄せられました。

特に注目されたのは、30日間にわたる祭りの後、最終的に和解する大文字屋と若木屋の展開です。

「30日間も祭? ケンカ? で張り合った結末がおもしろかった、熱かった」

「少年漫画の最終回のようだ。美しい」

「え? 最終回????? すご、おもしろ」

「なかなかの神回だったのでは?」

といった声が視聴者から上がりました。

また、うつせみと新之助の再会シーンでは、松の井の台詞「祭に神隠しは付き物でござんす。お幸せに」に多くの視聴者が感動しました。

「きゃーー!!!!今日の粋ーーッ!!!」

「松の井花魁カッケェよ、粋だよ」

「松の井姐さんの粋っぷりに全部持ってかれた」などの感想があふれました7

さらに、平賀源内がエレキテルを「どんな病も治る」と売り込むシーンについても

「健康器具はこの時代から胡散臭い」

「源内先生、本日は怪しい健康セミナーの講師のよう」

「当時はエレキテルの仕組みなんてわからないから悪い気のせいっていっても信じるよね」

といった現代の視点からの面白いコメントが見られました。

平沢常富の正体:朋誠堂喜三二の二重生活

第12回で最も重要な展開の一つは、平沢常富の正体が朋誠堂喜三二だったという事実の暴露でした。

これまで蔦重を導いてきた秋田佐竹家留守居役の平沢常富が、実は人気戯作者としての顔も持っていたのです。

この二重性は江戸文化における「表と裏」「雅と俗」の象徴とも言えます。

武士でありながら戯作者という二つの顔を持つことは、当時の身分社会においてはリスクを伴う選択でした。

だからこそ、戯号(ペンネーム)を使い、正体を隠して執筆活動を行っていたのでしょう。

平沢=喜三二の存在は、蔦重にとって強力な味方であると同時に、「出版業界における”暗黙のルール”や”しがらみ”を意識させる存在」でもありました。

特に戯作や青本に対する価値観は保守派の版元とは対立しがちで、蔦重自身が「誰のために出版するのか」と問い直す機会となりました。

俄(にわか)祭りの歴史的背景と意義

「俄(にわか)」とは即興の演劇や踊りを指し、吉原の華やかな文化の一つでした。

第12話では、この祭りが単なる娯楽以上の意味を持っていたことが描かれています。

当時の吉原は、表向きは華やかな遊興の場所でありながら、多くの女性たちが自由を奪われ、厳しい現実と向き合っていました。

祭りは、そんな日常から一時的に解放される貴重な機会であり、身分や立場を超えて人々が交流できる場でもありました。

第12話で描かれた30日間にわたる祭りは、対立していた大文字屋と若木屋が最終的に「もう…やることねぇな」「おう、30日よくやったぜ」と互いをたたえ合う関係に変化するきっかけとなりました。

この展開は、祭りが持つ共同体形成や和解の機能を象徴しています。

また、蔦重がこの祭りに関わることで、出版業としての新たな可能性を見出していく様子も印象的でした。

「明月余情」の文化的意義

第12話のタイトルにもなっている「明月余情」は、蔦重が出版した俄祭りを記録する冊子の名前です。このエピソードでは、朋誠堂喜三二(平沢)が「序」の部分だけを執筆することになります。

一見すると小さな出来事ですが、この「明月余情」の出版は、蔦重の出版業としての成長と、作家や絵師との関係性の深化を示す重要なエピソードです。

特に朋誠堂喜三二との協力関係は、後の「寛政の改革」まで続く二人の蜜月の始まりを意味しています。

また、祭りという一過性のイベントを記録し、冊子として残すことで、当時の文化を後世に伝える役割も果たしています。

これは「江戸のメディア王」としての蔦屋重三郎の先見性を示すエピソードとも言えるでしょう。

うつせみと新之助:自由を求める物語

吉原という閉ざされた世界の中で、自由を夢見て駆け出したうつせみと新之助の物語も、第12回で重要な転機を迎えます。

以前に足抜け(脱走)に失敗したうつせみが再び楼に戻るも、祭りの日に新之助と再会します。

特に印象的なのは、松の井が言った「祭に神隠しは付き物でござんす。お幸せに」という台詞ですよね。何回も言っちゃいますけど…。

この一言で、うつせみの背中を押し、二人の逃避行を許す松の井の「粋」な心意気が表現されています。

「大門の向こう」へと向かううつせみと新之助の後ろ姿は、「自由」という言葉の象徴として描かれました。

世間や身分に翻弄されながらも、「自分で人生を選びたい」という純粋な願いが、視聴者の胸を打つシーンとなっています。

物語だから、これでいいんです。

史実と創作の狭間:大河ドラマ「べらぼう」の描写

大河ドラマ「べらぼう」は江戸中期、庶民たちによって盛り上がったポップカルチャーの萌芽を描いており、文化系大河と言われていますね。

第12話に限らず、本作全体を通して、吉原遊郭の「光」と「影」の両面が描かれています。

華やかさの裏には、自由を奪われた遊女たちの涙や死、客たちが夢に溺れる中で抱える葛藤も垣間見えます。

吉原は単なる娯楽の場ではなく、時代の欲望と美学、そして人間の儚さを映し出す鏡のような存在として描かれています。

このような描写については、第1話放送時に全裸の遺体シーンが物議を醸したこともありました。

NHKの制作統括・藤並英樹チーフプロデューサーは「吉原の華やかなところだけでなく、吉原の格差であったり、搾取の構造だったり、貧困だったり、影の部分もしっかり描きたい」と意図を説明しています。

第12話では、そうした「影」の部分よりも、祭りという非日常の中で生まれる人々のつながりや、束の間の自由といった前向きな要素が強調されていました。

これは物語全体の中での緩急を意識した構成と言えるでしょう。

第12話から読み解く今後の展開予想

第12話の「俄なる『明月余情』」は、蔦屋重三郎の出版業としての成長と、人々との絆の形成が描かれた重要なエピソードでした。

特に朋誠堂喜三二(平沢常富)との関係性の深化は、今後の展開においても重要な要素となるでしょう。

第13話の予告によれば、「蔦重は鱗形屋が再び偽板の罪で捕まった知らせを受ける。一方、江戸城では意次(渡辺謙)が平蔵(中村隼人)に座頭金の実情を探るよう命じる…」という展開が待っています。

これは、出版業界の闇や幕府の動きが絡み合う展開を予感させます。

また、うつせみと新之助の逃避行の結末も気になるところです。

吉原を出た二人がどのような人生を歩むのか、またはその逃避行が成功するのかどうかは、物語のサブプロットとして多くの視聴者の関心を集めていると思われます。

さらに、朋誠堂喜三二の正体が明かされたことで、彼の二重生活が今後どのような影響をもたらすのかも注目されます。

武士としての立場と戯作者としての活動の間で、彼がどのような選択をしていくのかが、物語の重要な展開ポイントとなるでしょう。

そしてもう一つ、次週以降気になるのは、鳥山検校と瀬川について。

史実では鳥山検校は1778年に高利貸し業の不正で幕府から財産没収と江戸追放処分を受け、没落します。

その後瀬川は武家・飯沼の妻となり二子をもうけた後、大工の結城屋八五郎と再婚したという説はありますが、実は正確な記録は残っていないのです。

そこでドラマでは、鳥山の没落後、瀬川が蔦重と再会する可能性があるかもしれませんね。

蔦重の出版事業に瀬川が関わるとか、二人がやがて一緒になるとか…。

ですが、一方で史実との兼ね合いから、二人の再会は叶わず「永遠の別れ」となる悲劇的結末も考察されています。

二人が今後どうなるのか、気になりますね。

まとめ:祭りが結ぶ人々の絆

第12回「俄なる『明月余情』」は、吉原の夏祭り「俄」を通じて、対立していた人々が和解し、新たなつながりが生まれる物語でした。

30日間の祭りという設定は、一見長すぎるようにも思えますが、その過程で人々の関係性が変化していく様子が丁寧に描かれ、最終的な大団円での和解シーンが多くの視聴者の心を打ったと思います。

また、平沢常富の正体が朋誠堂喜三二だったという展開は、江戸時代の身分社会における表と裏、公と私の複雑な関係性を象徴しています。

この二重性は、当時の文化を形成する重要な要素であり、蔦屋重三郎のような新興勢力が活躍できる余地を生み出していたとも言えるでしょう。

うつせみ新之助の物語は、吉原という制約の多い世界からの脱出を描くことで、「自由」という普遍的なテーマを提示しています。

松の井の「祭に神隠しは付き物でござんす。お幸せに」という台詞は、表向きは厳格な規律に従いながらも、人間の機微や情に寄り添う江戸文化の「粋」を体現しています。

「べらぼう」という大河ドラマは、単なる時代劇を超えて、現代にも通じる人間ドラマとして多くの視聴者の心を捉えています。

第12話はその中でも特に印象的なエピソードとして、視聴者から「神回」と評価される回となりました。

今後も蔦屋重三郎の成長と挫折、そして周囲の人々との関係性の変化に注目しながら、江戸文化の発展と「べらぼう」な世界を楽しんでいきたいと思います。

うつせみと新之助

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