こんにちは、なおじです。
NHK朝ドラ『ばけばけ』で北川景子さんが演じる雨清水タエの物乞いシーン、あれは史実なんです。
モデルは**小泉チエ(1837〜1912年)**という実在の女性。
松江藩家老の娘として1400石の禄高を誇る名家に生まれながら、明治維新後に物乞いへと転落しました。
35年間教壇に立ったなおじが、史実に基づいて小泉チエの生涯を検証します。

【この記事でわかること】
- ばけばけタエのモデル・小泉チエのプロフィール
- 家老の娘が物乞いに転落した理由
- 明治維新後の武家社会の価値観と生活能力の問題
- 松江藩の士族58戸・240人が物乞いになった社会背景
- 娘・小泉セツによる晩年の救済エピソード
- ドラマと史実の違い(性格設定・家族構成)
- 小泉チエの最期と75歳まで生きられた理由
小泉チエのプロフィール|家老の娘として生まれた絶世の美女
塩見家の一人娘として30人の侍女に囲まれた幼少期
小泉チエは、天保8年(1837年)3月21日、松江藩家老・塩見増右衛門の一人娘として誕生しました。
塩見家は禄高1400石を誇る名家。
松江藩の家老職は、藩主に次ぐ最高位の役職です。
使用人を30人近く抱える大屋敷に住んでいたんですよ。
チエは幼い頃から京や大坂から招いた一流の師匠に芸事を習いました。
三味線は玄人も舌を巻くほどの腕前。
琴や和歌、書道にも秀でていたと伝えられています。
また「松江藩御家中一の器量よし」と称される絶世の美女だったんです。
なおじが教壇に立っていた頃、生徒たちに「江戸時代の上級武士の暮らし」を教えるとき、この小泉チエのエピソードを引き合いに出したことがあります。
「30人の使用人がいる家って、想像できる?」と問いかけると、生徒の目がまん丸になりました。
「先生、お姫様みたいですね!」って言われたのを覚えています。
禄高1400石の意味|現代の年収に換算すると
ここで、禄高1400石がどれほどのものか説明しておきましょう。
江戸時代の1石は、成人1人が1年間に食べる米の量とされていました。
1400石ということは、1400人分の年間米消費量を収入として得ていたことになります。
現代の貨幣価値に換算すると、年収で約1億円以上に相当するとも言われているんですよ。
なおじが社会科で「江戸時代の石高制度」を教えるとき、いつもこう説明していました。
「1石=10万円くらいと考えると、1400石は1億4000万円。でも、実際にはもっと価値があったかもしれないね」って。
生徒たちは「すごい!」って驚いていました。
13歳の初婚の夜に起きた衝撃的事件
チエは満13歳になる前に最初の結婚をします。
でも、初婚の夜に衝撃的な事件が起こったんです。
新郎が突然発狂し、心中を図ろうとしたんですよ。
この時、チエは取り乱すことなく毅然と振る舞いました。
使用人を呼び、冷静に事態を収拾したと伝えられています。
人々はチエの落ち着いた対応に称賛の声を上げました。
すぐに実家に引き取られると「嫁に欲しい」という申し込みが殺到。
名家の姫君として、引く手あまただったんですね。
当人に尋ねたところ、チエは「小泉へなら」と答え、小泉湊に嫁ぎました。
小泉湊は松江藩の番頭で家禄300石。
塩見家の1400石よりは格下でしたが、それでも立派な上級武士でした。
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明治維新による没落|働けない武家の妻が物乞いへ
廃藩置県と秩禄処分が武士階級を直撃
さて、明治維新後のことです。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、藩という組織が消滅しました。
続いて明治9年(1876年)の秩禄処分により、武士の家禄が廃止されたんです。
小泉家の定収入は完全に消滅しました。
これは単なる減収ではなく、生活基盤の完全崩壊を意味していました。
なおじが「明治維新の光と影」を教えるとき、必ずこの点を強調しました。
「文明開化で日本は近代化したけど、武士階級は職を失ったんだよ」って。
生徒たちは「じゃあ、お侍さんたちはどうしたんですか?」って聞いてきます。
「それがね、働けなかった人も多かったんだよ」と答えると、不思議そうな顔をしていました。
夫・小泉湊の機織会社倒産と病
夫の湊は、なんとか生計を立てようと機織会社を経営しました。
でも、明治19年(1886年)頃の不景気で倒産しちゃったんですよ。
明治政府の殖産興業政策により、近代的な工場が次々と建設されていました。
個人経営の小規模な機織会社は、太刀打ちできなかったんです。
さらに追い打ちをかけるように、湊は病に倒れました。
家計は完全に破綻。
初めは家財を売り払ってなんとか糊口をしのいでいましたが、それも早々に尽きてしまいます。
塩見家から持参した婚礼道具、高価な着物、美術品。
かつての栄華を物語る品々が、次々と手放されていきました。
「働く」という概念がなかった武家の女性
上級武士の家系で育ったチエには、賃仕事のために働くという概念がありませんでした。
当時の武家の女性にとって、人に雇われて働くことは考えられない恥辱だったんです。
これは単なる「プライドの問題」ではありません。
江戸時代の武家教育では、「働く」ことを教えなかったんですよ。
武家の女性は家事を使用人に任せ、芸事や教養を磨くことが美徳とされていました。
料理、洗濯、掃除といった生活技術を、ほとんど身につけていなかったんです。
なおじが授業で「武家社会の価値観」を教えるとき、いつもこう説明していました。
「現代の『働けば良いのに』という感覚は、当時の人には通用しないんだよ。教育されていないことは、できないんだ」って。
すると生徒たちは「じゃあ、チエさんはどうしたんですか?」って聞いてきます。
そこでなおじは、少し間を置いてから答えました。
「物乞いするしかなかったんだよ」って。
松江藩士族58戸・240人が物乞いに
彼女に残された選択肢は、もう物乞いしかありませんでした。
『山陰新聞』や『西田千太郎日記』には、チエが物乞いとなったことが記されています。
当時の人々の記憶にも残るほど衝撃的な出来事だったようです。
実は当時の松江では、チエのような元・士族の極端な貧困は決して珍しくなく、社会問題化していました。
松江市及び近村に居住する士族のうち、**58戸・240人が「乞食するもの」**であったという記録が残っているんですよ。
これは松江藩の士族全体から見れば一部ですが、無視できない数字です。
明治政府は士族授産事業として、勧業基金の設置や職業訓練を行いました。
でも、長年の武家教育で「働くことは恥」と教え込まれた人々を、急に転換させることはできなかったんです。
姫から乞食 明治維新の 光と影
なんか、切ないですよねえ。
👉関連記事:ばけばけ第39話|タエの物乞いシーンの史実
娘・小泉セツによる救済|晩年は八雲宅で暮らす
稲垣家の養子に出された娘セツ
チエには娘がいました。
それが小泉セツ(後の小泉八雲夫人)です。
セツは幼い頃、小泉家の親戚にあたる稲垣家に養子に出されました。
これは当時の武家社会では珍しいことではありません。
跡継ぎのいない家に養子を出すことで、家名を存続させる習慣があったんです。
稲垣家も300石の上級武士でした。
セツは稲垣家で大切に育てられ、武家の女性としての教育を受けました。
小泉八雲との結婚と月給20円からの9円仕送り
どうしようもない貧困に陥ったチエを経済的に救ったのが、この娘の小泉セツでした。
セツは明治24年(1891年)8月に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と結婚しました。
結婚後、毎月9円の仕送りをチエが亡くなるまで続けたんです。
当時のセツの月給は20円でしたから、給料の約半分を実母に送っていたことになります。
現代の貨幣価値に換算すると、月給20円は約30〜40万円程度。
その半分ですから、15〜20万円を毎月仕送りしていた計算になります。
世間から「ラシャメン(外国人の妾)」と蔑まれることを覚悟の上で、八雲の女中を引き受けたセツの親孝行には、なおじも胸を打たれました。
なおじ自身も娘を持つ親ですから、セツの孝行心には本当に頭が下がります。
👉関連記事:小泉八雲と家族の熊本時代|史実のエピソード
八雲の理解と協力
この仕送りは、セツだけの意志ではできませんでした。
夫である小泉八雲の理解と協力があったからこそです。
八雲は当初、松江の中学校で英語教師として月給100円を得ていました。
その後、熊本の第五高等学校、東京帝国大学へと移り、収入は増えていきます。
でも、セツの実家(小泉家)への仕送りを、八雲は一度も咎めませんでした。
むしろ「家族を大切にすることは美徳だ」と評価していたと伝えられています。
八雲自身も複雑な家庭環境で育った人物でした。
だからこそ、セツの親孝行を深く理解していたのかもしれませんね。
1912年、75歳で生涯を閉じる
小泉チエは明治45年(1912年)に74歳(満年齢)で死去しました。
1910年頃の日本人女性の平均寿命が44.73歳であったことを考えると、チエは天寿を全うしたと言えるほどの長生きでした。
晩年のチエは大阪で親戚とともに住んでおり、病気になった際にはセツが駆けつけて看病もしていました。
明治39年(1909年)、すでに八雲は亡く、セツは4人の小さな子供たちの母親でした。
一雄(長男)、巌(次男)、清(三男)、寿々子(長女)。
4人の子育てに追われる日々です。
でも、それでも実母の元に駆けつけたんですよ。
セツの親孝行は、チエの晩年になっても消えることはありませんでした。
物乞いの時代を経験した女性としては、娘に支えられた晩年は大きな救いだったと思います。
👉関連記事:ばけばけ第70話|トキとママさんの家族の絆
ドラマと史実の違い|雨清水タエは厳しいが実母チエは優しかった
性格設定の違い
『ばけばけ』では雨清水タエ(北川景子)は、娘トキに対して厳しい態度を取る「教育ママ」的な描写がされています。
養子に出すことを決断したのもタエであり、トキの将来を案じるあまり厳しく接するシーンが印象的です。
でも、史実の小泉チエは優しい性格だったと伝えられています。
長男・小泉一雄の随筆『父小泉八雲』によれば、チエは芸事の才能に恵まれ、人々の称賛を浴びる毅然とした女性でした。
孫たちにも優しく接し、晩年は穏やかに暮らしていたようです。
ドラマでは視聴者にわかりやすくするため、キャラクター設定を変更したんでしょうね。
なおじが歴史ドラマを教材にするときも、「ドラマはドラマ、史実は史実」と生徒に説明していました。
両方を知ることで、より深い理解が得られるんですよ。
家族構成の違い
また、ドラマでは「雨清水家」と「松野家」という2つの家族が登場しますが、史実では雨清水家=小泉家(実家)、松野家=**稲垣家(養家)**です。
ドラマでは視聴者が混乱しないよう、家の名前を変えたんでしょうね。
また、ドラマでは雨清水三之丞(板垣李光人)というトキの弟が登場しますが、史実では小泉藤三郎という実弟がいました。
さらに、史実の小泉家には11人の子供がいたという説もあります。
ただし、多くが幼くして亡くなり、成人したのは数人だったようです。
ドラマでは家族構成を簡略化し、物語をわかりやすくしているんですね。
👉関連記事:ばけばけ第14話ネタバレ感想
元教師が見る明治維新の光と影|教育と生活能力の関係
武家教育の問題点
なおじが35年間教壇に立って痛感したことがあります。
それは**「教育されていないことは、できない」**という事実です。
現代でも、家庭科で料理を習わなかった子供は料理が苦手です。
数学を習わなければ、方程式は解けません。
江戸時代の武家教育では、「働くこと」「生活すること」を教えなかったんです。
上級武士の子女は、使用人に囲まれて育ちました。
料理、洗濯、掃除といった生活技術は、すべて使用人がやってくれました。
彼らが学んだのは、武芸、学問、芸事、礼儀作法。
立派な武士・武家の女性になるための教育でした。
でも、明治維新でその前提が崩壊したんです。
「働いて生計を立てる」という、庶民にとっては当たり前のことが、武士階級にはできませんでした。
明治政府の士族授産事業
明治政府もこの問題を認識していました。
士族授産事業として、様々な支援策を講じたんです。
勧業基金の設置、職業訓練所の開設、開拓団の組織化。
でも、長年の武家教育で培われた価値観を、急に変えることはできませんでした。
なおじが授業で「明治時代の社会問題」を教えるとき、必ずこの点を強調しました。
「制度を変えるのは簡単だけど、人の価値観を変えるのは難しいんだよ」って。
生徒たちは「じゃあ、どうすれば良かったんですか?」って聞いてきます。
なおじはいつもこう答えていました。
「時間をかけて、教育するしかなかったんだろうね。でも、その時間がなかったんだよ」って。
Q&A|読者の疑問を解決
Q:小泉チエは本当に物乞いをしていたんですか?
A:はい、史実です。
『山陰新聞』や『西田千太郎日記』に記録が残っており、当時の人々の記憶にも残るほど衝撃的な出来事でした。
家老の娘が物乞いに転落したことは、明治維新による武士階級の没落を象徴する出来事だったんですよ。
Q:なぜチエは働かなかったんですか?
A:上級武士の家系で育ったチエには、賃仕事のために働くという概念がなかったんです。
当時の武家の女性にとって、人に雇われて働くことは考えられない恥辱でした。
また、実際に生活技術を教育されていなかったため、働きたくても働けなかったという側面もあります。
これは価値観の問題であり、現代の感覚で判断するのは難しいですね。
Q:セツはどのくらい仕送りをしていたんですか?
A:セツの月給20円のうち、約9円を実母チエに仕送りしていました。
給料の約半分ですから、相当な親孝行ですよね。
現代の貨幣価値に換算すると、月15〜20万円程度を毎月仕送りしていた計算になります。
なおじも娘を持つ親として、セツの孝行心には頭が下がります。
👉関連記事:西田千太郎の生涯|ばけばけ錦織のモデル
Q:チエの晩年は幸せでしたか?
A:娘セツの経済的支援と献身的な看病により、75歳まで生きることができました。
当時の女性の平均寿命が44.73歳だったことを考えると、天寿を全うしたと言えるでしょう。
物乞いの時代を経験した女性としては、娘に支えられた晩年は大きな救いだったと思いますよ。
Q:他にも物乞いになった士族はいたんですか?
A:はい、松江藩だけで58戸・240人が物乞いになったという記録が残っています。
全国的に見ても、明治維新後の士族の没落は深刻な社会問題でした。
西南戦争(1877年)などの士族反乱も、こうした不満が背景にあったんです。
Q:ドラマのタエとチエ、どちらが本当の姿ですか?
A:どちらも「一面の真実」だと思います。
ドラマのタエは、娘を厳しく教育する母親像。
史実のチエは、優しく毅然とした女性像。
どちらも「明治を生き抜いた女性」であることに変わりはありません。
ドラマと史実、両方を知ることで、より深く理解できるんですよ。
【筆者プロフィール】なおじ
元社会科教師35年(小学校・中学校)。
茨城県の公立学校で教壇に立ち、最後の11年間は校長として勤務しました。
専門は日本史、特に明治維新と近代化の「光と影」。
「教科書に書かれていない歴史の真実」を伝えることをライフワークとしています。
退職後は、歴史の面白さをもっと多くの人に伝えたいと思い、ブログ執筆を開始。
現在は8つのブログを運営し、歴史、政治、ドラマ考察、旅行、スポーツなど多角的な視点で情報発信しています。
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