日本の国号は、古代から「倭」、「大和」、「大倭」、「日本」と変遷してきましたが、これらがすべて「やまと」と読まれるのはなぜでしょうか?
この謎を解くためには、古代日本の文化的背景やその変遷を知る必要があります。
このブログでは、読者が以下の疑問に答えを見つけることができるようにします。
- なぜ「倭」を「やまと」と読んだのか?
- 「倭」は「我・吾」ではないのか?
- 中国人が「我・吾」を誤解したのではないか?
- 悪意を持って「倭」の字を充てたのではないか?
- 「日本」も当初「やまと」と読まれたことについて
特に「悪意がこもった『倭』」をやめて「日本」の文字を当てたことや、当初「日本」も「やまと」と読まれたことに触れます。
また、本居宣長も「倭=やまと」であることを強調しています。
1. 「倭」を「やまと」と読む理由
「倭」を「やまと」と読む理由は、古代日本人が「わ」と自称したことに由来する可能性があります。
平安時代の『弘仁私記』には、「倭の訓は此の国の人が自称する『我(われ)』なり」と記されているのです。
これは、古代日本人が「わ」と自称したことが「倭」の字選びに影響したことを示唆しています。
2. 「倭」は「我・吾」ではないのか
日本人が、自分たちを「わ」「わ」と呼ぶのを聞いて、中国側が「お前たちは「わ」なのか。それならお前たちを『倭』と呼ぶ」ことにした。
「倭」とは、「従順な者」を意味する文字と説明されたようですが、実は、違う意味もあったのです。
この「倭」という文字は、「矮小な者」、つまり「小さくてチンチクリンな人」という意味があります。
これは、日本側の意図とは異なるものです。
3. 中国人が誤解したのではないか
日本人が「わ」と自称したのを中国人が「わ」を国名だと誤解した可能性も指摘されています。
当時の日本人にとって、国名は「やまと」です。
そこで、中国から与えられた「倭」の文字を「やまと」と読むことにした。
ただし、3世紀の金印「漢委奴国王」では「委」が中立的な表音文字として使われています。
もしかすると、当初は、悪意のある「倭」ではなく「委」が用いられていたのかもしれません。
4. 「日本」誕生の背景
「日本」国号は、7世紀末の東アジア情勢変化を受けて誕生しました。
遣唐使が「日本国」を名乗り、唐の則天武后が承認したことで、対等外交を目指す日本の姿勢が国際的に認知されました。
ですが、当初「日本」も「やまと」と読まれていたことが知られています。
本居宣長は『国号考』で、孝徳天皇の時代に「日本」号が採用されたと指摘していますが、唐には伝わっていなかったと批判しています。
5. 「日本書紀」と「やまと」の関係
『日本書紀』は奈良時代に完成した日本最古の歴史書で、当初は「にほんしょき」と読むのではなく、「やまとのふみのき」とも読まれていたでしょう。
『弘仁私記』や『釈日本紀』には「日本書紀」との記述が見られますが、読み方については明確な証拠がないため、現在でも「にほんしょき」か「にっぽんしょき」かは議論されています。
6. 「倭=我」説に対する批判
当然ながら、「倭」は、自称ではないと主張する方もいます。
「倭」は日本人の自称ではなく、中国人が付けた名であるという可能性~。さらにこれについて、「倭」は倭人の持つ何らかの特徴から中国人によってそう呼ばれたという可能性を探ってみたい。
【倭国、倭人の「倭」とは何か】
このような主張です。
ですが、ここでも『中国人から「倭」と呼ばれた』と述べていますね。
つまり、中国人が勝手に「倭」と呼んでいたわけです。
古代の日本人にとって、自分たちの国はあくまで「やまと」です。
中国人が言う「倭(対外的な文字)」は、「やまと」の当て字として成立したにすぎません。
結論
「倭・大和・大倭・日本」がすべて「やまと」と読まれる謎は、古代日本の文化的アイデンティティとその変遷を示すものです。
「倭」を「やまと」と読む理由は、古代日本の自称「わ」との音韻的符合にあります。
中国側の誤解や悪意説は、当時の言語交流の複雑さと後世の偏見に起因するものです。
「日本」国号は、対外的自立と文化的自信を象徴するものとして誕生しました。
このブログを通じて、読者が日本文化の多面性を理解し、さらに深い興味を持つことを期待します。
参考文献
- 神野志隆光『日本とは何か』(講談社現代新書)
- 本居宣長『国号考』(国書刊行会)
- 『釈日本紀』(岩波書店)
- 『魏志倭人伝』(平凡社)
- 熊本県教育委員会『江田船山古墳出土大刀銘』
- 『続日本紀』(岩波書店)
年表
年代 | 事件 | 内容 |
---|---|---|
3世紀 | 金印「漢委奴国王」 | 「倭」の字が中立的表音文字として使われる |
7世紀末 | 「日本」国号制定 | 大宝律令で「日本」が正式国号となる |
702年 | 遣唐使 | 「日本国」を名乗り、唐が承認 |
720年 | 『日本書紀』完成 | 奈良時代に成立した日本最古の歴史書 |
人物相関図
- 粟田真人:遣唐使として「日本国」を名乗る【西暦702年(大宝2年)】
- 則天武后:唐で「日本国」を承認【同・702年】
- 天武天皇:律令国家の基礎を築く
- 本居宣長:国学者として「倭=やまと」であることを強調
付録:逸話とエピソード
- 白村江の戦い:倭国が唐・新羅連合軍と戦い、敗北。以降、遣唐使が途絶える。
- 壬申の乱:天武天皇が甥の大友皇子を破り、中央集権化を進める。
- 則天武后の承認:唐が「日本国」を承認し、日本の国際的地位が向上。
「倭」から「日本」への変遷
国号 | 時代 | 内容 |
---|---|---|
倭 | 古代 | 中国側の他称 |
大和 | 古代 | 地域名としての使用 |
大倭 | 7世紀 | 倭王権の拡大 |
日本 | 7世紀末 | 対外的自立を目指す |