【おまけ・具体的エピソール①】小田城籠城戦と津軽合戦:北畠親房の奮闘
小田城籠城戦(1339年~1341年)
背景と経緯
常陸国小田城(現在の茨城県つくば市)は、南北朝時代における南朝の重要な拠点でした。
北畠親房は1338年に常陸国へ漂着し、小田治久の支援を受けて小田城を拠点に南朝勢力を再建しようとしました。
しかし、1339年以降、北朝方の足利軍(高師泰・高師冬ら)が東国へ進出し、小田城は激しい攻撃を受けることになります。
籠城戦の展開
親房は結城親朝など東国の南朝支持勢力に援軍を求めましたが、十分な支援を得られませんでした。
さらに、小田城内では内通者や反乱が発生し、親房にとって安全な場所ではなくなっていったのです。
最終的に、小田治久が北朝方に寝返り、高師冬の軍勢を引き入れたため、小田城は陥落。
親房はやむなく関城(現在の茨城県筑西市)へと撤退したのでした。
小田城籠城戦の意義
この籠城戦は、南朝が関東で勢力を保つための重要な試みでした。しかし、内部崩壊や支援不足が原因で失敗に終わり、南朝勢力は常陸国で大きく後退しました。それでも親房は『神皇正統記』執筆など思想的活動を続け、南朝正統論を広める努力を続けました[6][12].
津軽合戦(1333年~1334年)
背景
津軽地方(現在の青森県)は、鎌倉幕府滅亡後も北条氏残党や地元豪族が割拠する混乱状態にありました。
この地域で南朝勢力を広げるため、北畠顕家(親房の息子)率いる軍が派遣されます。
特に津軽地方で行われた大光寺合戦は、この地域の支配権を巡る重要な戦いとなりました。
戦いの展開
大光寺合戦では、鎌倉幕府滅亡後に津軽地方へ逃れてきた北条氏残党が、大光寺楯(現在の青森県平川市)に立て籠もりました。
これに対し、北畠顕家は多田貞綱や南部師行らを派遣し、大光寺楯やその周辺地域で激しい攻防が繰り広げられまたのです。
最終的に顕家軍が勝利し、この地域を掌握しましす。
津軽合戦の意義
この合戦は、東北地方で南朝勢力を拡大する上で重要な役割を果たしました。
また、地元豪族との連携によって地域支配を強化する契機ともなりました。
顕家はこの勝利を基盤として東北地方から関東へ進軍し、その後の鎌倉攻略などにつながる重要な成果を挙げたのです。
北畠親房とその戦略
小田城籠城戦と津軽合戦はいずれも、南北朝時代における南朝勢力維持・拡大のための重要な局面でした。
前者では内部崩壊や支援不足による敗退という苦い経験がありましたが、後者では顕家軍が勝利し、地域支配を確立する成果が得られます。
これらの出来事から見えるのは、北畠親房父子がいかなる困難にも屈せず、日本全土で南朝正統論を掲げて奮闘した姿です。
その努力は政治・軍事だけでなく、『神皇正統記』という思想的遺産としても現代まで影響を与えています。
常陸や東北における南朝軍の敗北と北畠親房のその後
北畠親房は、1338年(延元3年)、南朝の勢力を再建するため義良親王を奉じて常陸国(現在の茨城県)へと上陸しました。
彼は現地の南朝方の支援を受け、小田城(茨城県つくば市)を拠点に活動を開始します。
しかし、北朝方の佐竹氏や高師冬らが猛攻を仕掛け、一進一退の攻防が続きました。
1341年(興国2年)、小田城はついに北朝方に開城され、親房は関宗祐の関城(茨城県筑西市)へと撤退します。
その後も大宝城(茨城県下妻市)や伊佐城(茨城県筑西市)を拠点に抗戦を続けましたが、1343年(興国4年)、頼りにしていた結城親朝が北朝方に降伏。
これにより、南朝軍は常陸での拠点を次々と失い、親房は吉野への撤退を余儀なくされたのです。
東北での敗北:津軽合戦と奥州での後退
一方、東北地方では、北畠顕家(親房の長男)が鎮守府将軍として奮闘していました。
1337年(延元2年)、顕家は奥州から関東へ進軍し、鎌倉や美濃青野原で勝利を収めましたが、その後の石津の戦い(1338年)で敗死します。
この敗北は南朝勢力にとって大きな打撃となりました[。
顕家亡き後、東北地方では南朝勢力が次第に劣勢となり、霊山城(福島県伊達市)など主要拠点も次々と失われました。
観応の擾乱による一時的な混乱を利用して勢力回復を試みたものの、最終的には奥州での南朝支配も崩壊していきます。
北畠親房のその後:吉野への帰還と思想的活動
北畠親房の吉野帰還後の活動
北畠親房は、常陸国での南朝勢力の再建に尽力した後、1343年(興国4年/康永2年)頃に吉野へ帰還しました。
帰還後も、彼は南朝の中心人物として活動を続け、特に若き後村上天皇を支える重要な役割を果たし続けます。
1. 南朝の思想的支柱として
親房は吉野帰還後も、『神皇正統記』や『職原鈔』といった著作を通じて南朝正統論を思想的に補強しました。
特に『神皇正統記』では、「大日本は神国なり」と述べ、日本が天照大神による神聖な国であることを強調し、南朝の正統性を歴史的・宗教的に裏付けたのです。
この思想は、南朝勢力内外に広く影響を与えています。
2. 政治的・軍事的指導
吉野では、楠木正行らと連携しながら軍事面でも南朝を支えました。しかし、1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いで楠木正行が戦死するなど、南朝軍は苦境に立たされました。この状況下で親房は、主戦派として幕府への抵抗を続ける方針を固めました。
3. 南朝勢力の再編
観応の擾乱(1350年~1352年)という室町幕府内部の混乱を利用し、親房は南朝勢力を再編しす。
1352年(正平7年/文和1年)には京都奪回に成功し、一時的に北朝の上皇3人を捕虜とするなど、大胆な軍事行動を指揮しました。
しかし、この成功も長続きせず、再び吉野へ撤退することになります。
4. 後村上天皇への補佐
若い後村上天皇を補佐しながら、親房は南朝内部での政策決定や外交交渉にも関与しました。
彼は天皇個人への忠誠心が非常に強く、その献身的な姿勢が南朝内での信頼を集めていました。
晩年と死去
親房は晩年まで南朝再興のために尽力しましたが、1354年(正平9年/文和3年)、62歳で吉野で亡くなりました。
北畠親房の死因については、史料による明確な記述が少なく、詳細は不明です。
ただし、多くの記録や研究から、彼が晩年に吉野で病没したとされるのが一般的な見解です。
長年の戦乱や過労、そして失意が重なり、病に倒れた可能性が高いとされています。
また、「賀名生行宮」(現在の奈良県五條市賀名生)で客死したという記録もあり、この地で南朝の復興を目指しつつも、その願いが叶わないまま生涯を閉じたとの記録もあります。
彼の死後も『神皇正統記』が思想的遺産として受け継がれ、げんだいでも、日本史や国家観に大きな影響を与え続けていると言えます。
この意味で、北畠親房は、『日本を代表する日本人の一人』、と言えます。
【この記事は、ミネルヴァ日本評伝選 北畠親房を参考に執筆しました】